思いをつくして 社会のために働き
力をつくして 隣人を愛し
心をつくして 教会に奉仕し
福音の光に照らされて、誠実に人生を歩まれた
幹夫さんに神の栄光あれ!
心温まる友情に感謝して
神奈川県立保健福祉大学名誉学長 阿部志郎
河正子夫人の告別式でのご挨拶
主人の人生は青年時代からのキリスト教信仰を根として、よき師、先輩、同僚、後輩、教え子等、多くの方々に育てられ、守られ、実を結んだ幸せなものでありました。
家族から見れば弱さも至らなさも数々ありました。ただ、信仰と自分の務めへの誠実さには一点の曇りもなかったと思います。今 73年の生涯の全てを神様にお返しして、御許で安らいでいることでしょう。(抜粋)
河 幹夫
(かわ みきお)
1951年9月 東京都生まれ。中学生のとき、マクルキン宣教師館の英語クラスに参加。70年東京大学文科1類入学。同年5月、和泉福音教会にて受洗。また、大学内の点字サークル(点友会)の活動を始める。75年大学卒業後、厚生省入省。この年10月、点友会で知り合った正子さん(現・NPO法人 緩和ケアサポートグループ代表)と結婚、78年には長男義清さんを授かった。
厚労省では 社会保障関連の各部局、厚生労働省参事官 、 内閣官房・内閣審議官などを歴任。07年に厚労省退職後、17年まで神奈川県立保健福祉大学保健福祉学部教授。同年、社会福祉法人日本心身障害児協会島田療育センター理事長就任。また、社会福祉法人こころの家族副理事長などを務めた。2025年1月10日召天。享年73歳。

今は重い荷物を下ろして
社会福祉法人こころの家族 理事長
尹 基(田内基)
河幹夫先生をはじめに紹介してくださったのは、秋津療育園設立者の草野熊吉先生でした。1984年頃だから40年前のことです。しばらくして阿部志郎先生、神戸の土井隆一衆議院議員からも、紹介されて驚きました。 日本の聖者のような3人の先生たちから認められているのは、行動する信仰を持っている証でした。
ある日、河先生から電話がかかってきました。
「私たち厚生省は戦後から今まで差別を無くそうと頑張りましたが、差別が増えてるんです。社会福祉のあり方検討委員会に尹さんも加わって一緒に考えましょう。尹さんが好きな吉村靫生理事長も委員です」
河先生の言葉に、熱い思いが感じられました。
退職後は神奈川県立保健福祉大学教授に就任、故郷の家・京都に学生たちを連れて来て写真を撮ったり、一人一人を家族のように大切にして親密に会話し、食事しながら参考になる話をしておられ、それは優しい父のような教授の姿でした。
念願の故郷の家・東京ができた時、こころの家族評議員会では河幹夫先生を副理事長にと、決議しました。 河先生は喜んで引き受け、報酬はボランティアでした。「社会福祉法人における外国人専門職の養成・定着プロジェクト」の委員長を務め、それは良い記録になりました。
先生にお世話になったことが多いですが、もうあの重い荷物─差別のない日本社会作りの使命を下ろして、リラックスして下さい。復活の朝に天国で会えるように私も祈ります。
前に向かって走る人
和泉福音教会牧師 青木義紀
河さんはいろんなところに文章を寄せておられますが、くり返し主張しておられることは、「今、ここ」におられる目の前の一人と向き合い、その一人一人がどうやって一人の人間として生きることができるかということでした。一人の人の権利が守られ、生活が守られ、いかにいのちが守られるかということです。しかもそれが、単なる個人の善行や親切の域を越えて、より大きな世界で、社会や国家としてすべての人に行き渡るかということを考えて来られました。
『福音と世界』(新教出版社)20 16年11月号に河さんが寄せた文章の中に、次のような一節があります。
ルカによる福音書10章には、傷を負った旅人に近寄って助け起こし、介抱して宿屋に連れて行く「良きサマリア人」の姿が記されているが、この技(ヒューマン・サービス)を職業として成立させるためにはどのような社会制度を構築する必要があるのか。
ここには、社会や福祉といったものが、一時的なものとして終わってしまうことがないように、またサービスを提供する側の都合や事情で、サービスを受ける側に支障をきたすことがないように、持続的なサービスの提供を実現できる社会制度の構築を求める視点があります。ここに、河さんが主張し続けてきた福祉のあり方が凝縮されているように思うのです。一人の人が、生まれてから生涯を終えるまで、一人の人間として大切にされ、生活に必要なすべてが満たされて歩み切ることができる、そういう社会を、いまを生きる人に、さらにはこれから生きていく人にも残していこうとされたのです。
私たちは、この河さんが持っておられた壮大な意識と構想を受け取りながら、私たちも神の創造されたいのちと人間を尊ぶものでありたいのです。他の人を思いやり、他者のいのちや権利が守られるために何ができるか、そんなことを考えて、配慮できる歩みをたどっていきたいのです。そしてそうすることで、同じ信仰に生きた河さんとのつながりを、主にあってこれからも保って行けたらと思うのです。
今年の1月4日、私が最後に河さんにお会いしたとき、帰り際に正子さんが、河さんが召された時のことを考えて、少し葬儀のことを口にされました。「主人は、とにかく前に向かって走り続けた人でした。病気になっても、決して後ろ向きになることはなく、とにかく前を向いて走り続けてきました。だから、自分の葬儀のことについても何も言い残していません」。そうおっしゃっておられました。本当に、前に向かって進むことを徹底しておられたのだと思いました。
河さんは、まさに地上のすべての歩みを走り通しました。壁にぶつかっても前を向き、病に冒されても前を向き、とにかく前進しつづけて、自分の生涯を完走されました。いまは、約束された神からの賞を受け取って、走り続けた自らを、主のみもとで休ませておられるのだと信じます。(告別式説教から一部抜粋)
河幹夫さんの思い出
和泉福音教会員 坂井田廣子
河君はいつでも、弱い立場の人を大事にし、寄りそう方でした。その思いが、厚生労働省の働きで十分に果たされたと思います。
そして、どんなに忙しくても礼拝を守り、しばしば、永田町から和泉の礼拝に駆けつけて来られました。そして一番前の席で、疲れのために、よく居眠りもして居られました。
マクルキン先生の時代から、専大高校の教室時代も、また礼拝堂が出来てからも、ずっと礼拝後は、皆で、昼食を共にしました。その時、必ず、河君が、大きな声で、食前の祈りを祈るのが定番でした。そして、しばしば「この教会は、昼食で、繋がっているんだ」と独り言のように言って居られました。
また、教会のカメラマンでもありました。礼拝で、様々な行事がある度に、大きな体に小さなカメラをかまえてシャッターチャンスをねらっていました。そして翌週、皆に楽しそうに写真を配っていました。主にある豊かな交わりの記録を沢山残してくださいました。
2度の教会建築、そして隣接の土地購入に際して、河君は、本当に良く働かれ、会員全体の意向に気を配り、的確にリーダーシップを発揮されました。よく祈られてこその、働きであったと思います。
また、聖歌隊の練習では、河君の一声で皆が集まり練習を始めました。しかし、ほぼ毎回「河君ベースの音違いますよ」の私の注意に「ハイ。分かってます」の声で、全体が和やかになり、また河君もなんとなく嬉しそうに、大きな声でベースのパートを歌う。この流れもまた、いつも通りでした。
数年前に、河幹夫さんが理事長の「島田療育センター」に、娘たちと音楽を届けに参りました。ホールに集まった沢山の方々と音楽のひと時を共有しました。その時の河幹夫理事長の嬉しそうなお姿が今も目に焼き付いています。
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坂井田廣子さんは国立音楽大学付属高校2年生の時に当時中学生であった河幹夫さんと出会い、以来58年にわたる信仰の友であり続けました。娘の坂井田真実子さんは国立音楽大学院(声楽科)を卒業後イタリア・ウィーンに留学、2015年帰国後、2016年に視神経脊髄炎〈国指定難病〉を発症。真実子さんは病気を神様からのプレゼントとして受け取り「NPO法人 日本視神経脊髄炎患者会」を設立。その際も河幹夫さんが寄り添ってくださいました。
真実子さんはその後リハビリを経て演奏活動を再開しています。