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トピックス一覧 > 2012年 >中央サンデー(韓国)に小渕千鶴子元総理夫人のインタビュー記事掲載

10月、田内千鶴子生誕100周年のため渡韓する小渕千鶴子元総理夫人
                 ―中央サンデー(韓国)にインタビュー記事掲載―


  中央サンデー(韓国、2012.年7月29日)に小渕千鶴子さん(元総理夫人)が登場。「木浦共生園」と元内閣総理大臣である故小渕恵三氏の出会いから、ご本人の「木浦共生園」の子どもたちへの思いのほか、日韓関係について、娘である衆議院議員小渕優子氏のことなど、貴重なインタビュー記事を掲載。その全文を紹介いたします。

   
    写真:2008年、木浦共生園を訪ねた小渕千鶴子氏。園児たちの歓待を受ける。


 『木浦共生園の梅の木、主人がとっても良いプレゼントを残していただきました』
 10月に訪韓へ、小渕元総理夫人 千鶴子女史
 
2012年7月29日 東京=キム・ヒョンギ 特派員  luckyman@joongang.co.kr

 1999年8月のある日、韓国全羅南道木浦市にある児童養護施設「木浦共生園」の電話が鳴り響いた。 『東京の小渕ですが』 『はい? どちら様ですか?』

 電話を受けたのは共生園の園長であった田内緑(39)さん。電話をかけたのは、当時日本の現職内閣総理大臣であった小渕恵三氏(2000年死去)。
 『テレビで見ました。あなたのお婆様のお話。とっても感動いたしました。私も必ず木浦に訪れますので、その時まで頑張ってくださいね』

 田内緑さんは、当時、電話の相手が日本国内閣総理大臣であったとは夢にも思わなかったという。訳がわからず、何も答えることができなかった。
 ストーリーはこうだった。田内緑さんのお婆様である田内千鶴子(1968年死去)女史は、日本による韓国の植民地時代に木浦で暮らしていた。お父様が朝鮮総督府の下級官吏であったためである。田内女史は、木浦女学校を卒業後、音楽教師として働いた。その時、恵まれない孤児を集めて「木浦共生園」を作って運営していた伝道師、尹致浩(ユン・チホ)氏の情熱に惚れて、1938年に結婚した。韓国名である「尹鶴子(ユン・ハクチャ)」を付けたのもその時であった。田内女史は、1950年韓国戦争中に夫が行方不明になってからも3,000人余りの孤児を育てた。田内女史が1968年に亡くなられた時、木浦市は、市ができて以来、初の市民葬を執り行いその死を悼んだ。
 弔問客だけで30,000名を超えた。「韓国孤児の母」と呼ばれ、民族を超えた愛を実践した田内千鶴子女史の人生ストーリーは、日韓合作ドキュメンタリー「愛の黙示録」として描かれた。これを見た小渕総理が直ちに「木浦共生園」に電話をかけたのであった。

 その後にも小渕総理の電話は続いた。電話の内容はこのようだった。『韓国に大きな台風が来たと聞きましたが、共生園に被害はないのですか?』素朴なイメージで「庶民総理」とも呼ばれた小渕総理のスタイルがそのまま表れたのだった。その後、彼の電話は「木浦共生園」では”ブッチフォン(Phone)”と呼ばれた。2000年3月には、『日本の梅干しが食べたい』との田内さんの話を聞いて、彼の故郷である群馬県の梅の木20本を送った。しかし、結局、小渕総理は生前に「木浦共生園」を訪れることはできなかった。2000年4月に脳梗塞で倒れ、その年の5月14日に帰らぬ人となった。

 亡くなられた小渕総理の夫人である千鶴子(72歳・写真)女史が、来る10月末に木浦を訪れる。田内千鶴子女史生誕100周年を祝うためである。夫が格別な思いを抱いていた「木浦共生園」を訪れ、時と共に成長した梅の木を見て、夫の精神を今一度確かめたいつもりである。夫と親しい関係であった金大中元大統領、朴泰俊前ポスコ名誉会長のお墓参りも行う予定である。

 『近頃は孫(次女の小渕優子(38・自民党幹事長代理)議員の2歳、4歳の息子さん)の世話をしていて、とても疲れます。年を取ったことを痛感しています。』と言いながらお孫さんの話題になると微笑みが絶えない。千鶴子女史とのインタビューは2012年7月25日午後、東京永田町の小渕優子衆議院議員事務所にて行われた。

 

小渕元総理といえば、韓国では「周辺諸国によく配慮した総理」というイメージが強く、日韓関係の歯車がかみ合わなくなったこの頃、小渕元総理を思い浮かべる人々が多くなっている気がします。

 夫が総理大臣を務めていた頃、韓国と中国との関係は非常に良かったのです。1998年10月、当時大統領の金大中氏が訪日した際、両国が「21世紀日韓パートナー共同宣言」を行いましたが、その時、二人はこころを開いて本音で語り合いました。
 1999年3月には、韓国を国賓として訪問いたしましたが、とっても温かい歓待を受け、「ああ、本当に両国は隣国、いや傍にいる国なんだ」と感じました。以後、ASEANのような国際会議の席上でも夫と金大中元大統領はいつも隣同士でした。ほぼ指定席!(笑) それほど両国が親近感を感じ、お互いを理解し、語ることができました』(※1998年10月当時、小渕元総理は共同宣言で「日本が過去に一時期植民地支配をしたことにより多大な損害と苦しみを与えたという歴史的な事実を謙虚に受け入れ、これについて痛切な反省と心からの謝罪をする」といい、新しい両国関係のスタートは「過去の直視」から出発するという考えを明らかにしたことがある。)

 

両国の関係が悪くなった原因は、従軍慰安婦問題にあると考えます。韓国では日本政府が国家責任を認め政府次元での賠償を要求しておりますが、野田佳彦政権は『従軍慰安婦の賠償問題は1965年日韓協定時にすでに完了した問題』と主張しています。どのように解決すればいいのでしょうか。

 実は、夫が総理大臣だった頃もその問題(従軍慰安婦)がありまして・・・、過去は過去として直視し未来を見据えて進めようという考えでした。同じ話題が繰り返されると、同じ問題が繰り返され、前に進められないのです。もう、従軍慰安婦で被害を蒙られた方々も相当な高齢になったでしょう。正直、戦争中あるいは終戦後に起こったことは、私の世代の場合、あまり知らされていないことが多いのです。
 しかし、確かなことは、いずれかの時点で、慰安婦問題に充分な区切りを付けないといけないことではないかと思います。情緒的な面でもそうですし、その他のさまざまな面においてもそうです。

※千鶴子女史は、言葉を選びながら慎重に答弁するスタイルであったが、従軍慰安婦の質問に対しては「区切りを付けなけなければならない」というストレートな表現を繰り返された。

 

小渕元総理が生前に韓国の文化にもご関心があったと聞いております。

 今思い出せるのは、韓国の歌手キム・ヨンジャさんのコンサートに何回か行ったことです。夫は「あの歌手は、本当に熱心に歌うところが好きだよ」と言っていました。総理在任中には行けませんでしたが、それまでは何回もキム・ヨンジャさんのコンサートに夫と一緒に行ったりしました。

 

千鶴子女史は、最近の韓国K−POP歌手か俳優で好きな人はいますか。

 (笑)韓流ドラマはたまに見ますが、私も年ですし、K−POP歌手はちょっと・・・(笑)


10月に「木浦共生園」を訪れたら、子どもたちにどんなお話をされるのですか。

 2008年に初めて共生園を訪れた時、丘に植えられていた梅の木を見ながら、「この木に花が咲いて実が実るたびに夫のことを思い出してくれる誰かがいるんだろうな。夫は実に良いプレゼントをしたんだな」という思いがありました。今回訪れたら型にはまった言い方かもしれませんが、「元気で、明るく育ってください」という言葉を伝えたいです。』

※2000年4月、小渕総理が脳梗塞で倒れられた時、「木浦共生園」の子どもたちは千羽鶴を折り、小渕総理側に贈って、千鶴子女史はこれを夫が目を覚ました時に一番先に目につくようにリンゲルスタンドにかけておいた。小渕総理が他界すると、千鶴子女史は『子どもたちが作った千羽鶴が夫を天国に導いてくれることを信じる』と、棺の中に千羽鶴を入れた。

 

娘さんも政治家ですが、お父様の後を継いで総理になることを望みますか。

 さぁ、望むからといって・・・(笑)、指導者という立場は、本当に辛くて難しいものです。すべての責任を負わなければならないからです。夫は文字通り、身を切る思いで過ごした毎日でした。しかし、夫は自分自身の体の状態を口に出したことはありませんでした。総理官邸は、謂わば陸地に浮いている寂しい島でした。総理とはそのようなものです。

※千鶴子女史はある手記で「夫が2000年4月1日の夜、総理官邸でビデオを見ていた最中に、左半身麻痺などの異常症状を訴えたが、運転手も誰もいなくて病院に運ぶことができなかった。官邸には、救急箱一つもなかった。一番重要な総理の体のために何一つ備えがなかった。」と情けない危機管理の実態を明かしている。

                                       (日本語訳:社会福祉法人こころの家族)



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